自己紹介-職歴・人生の足跡

☆1.新社会人になって手話との出会い(1/8)

高校卒業後に入社した会社の新入社員研修で、千葉県我孫子市に長期滞在することになりました。地元名古屋から出たことは殆どなかったので、不安と期待が入り混じっての出発でした。

入社した会社は大手通信メーカーの工事部門(子会社)で新しく立ち上げた品質管理部門の出荷前検査や修理が出来るように研修が行われました。
千葉県・東北・横浜と関東を転々としてOJT(On Job the training-実際に仕事をしながらの研修)を行っていました。

我孫子工場で聾の青年と出会ったのがきっかけで工場の昼休みに手話勉強をしたり、手賀の会(手話サークル)に入会しました。
その流れで全国手話通訳問題研究会(全通研)に入会しました。初めて参加した北海道集会で衝撃な出会いがあったり(次回紹介します)と刺激的な毎日が続きました。

研修期間を終えて地元名古屋に戻り名古屋市北区の北手話サークルに入会しました 。当時の会長は小松さん(女性)がされていて岡泉さん(男性)が新しく自主手話講座を立ち上げた時期でした。

自主手話講座の特徴は今までの健聴者主導の手話サークルから聾者主体を目標にして、手話の技術だけでなく聾者の生活から学ぶことに重点をおいて、手話に限らずに親の居ない子供の施設訪問や盲ろう者友の会の全身となった交流会など、今までの手話サークルの枠に捕らわれない斬新なスタイルに刺激を受けました。

大晦日に宣伝用チラシ造りや泊まり込みの会議は他の手話サークルでは味わえない体験でした。
そのためか他の手話サークルには馴染めずに暫くは手話から遠のいていました。

仕事の出張はホテルか民宿で泊まっていましたが、初めてマンションを借りての寝泊まりをする下水処理施設の電気設備工事の現場がありました。
そこは三重県玉城町で時間に余裕があったので町内にあった手話勉強会に興味を持って見学しました、アットホームなムードに惹かれて出張が終わるまで通いました。そこが最後の「手話サークル」となりました。

最後に参加したのはバザーの行事でした、行事が終わり帰りがけの空にかかった天使の梯子がとても印象的でした、例会とは別に送別会並びに記念本まで頂いた感慨深いサークルでした。


☆2.要約筆記との出会い(2/8)

1回目の全国手話通訳問題研究会の北海道集会の出来事からです。

工場で聾者と出会った経験から聴覚障害者=聾者=手話と思い込んでいました。
しかし北海道集会に参加した難聴者から一部聞き取れる時もあるので聾者とは違った苦労や悩みがある事、手話だけでは通じない聴覚障害者がいる事を知りました。

その出会いがきっかけで名古屋に戻った時に要約筆記等研究連絡会「まごのて」のメンバ ーとして活動する事になりました。

活動内容の1つに要約筆記派遣対応があります、現在はパソコンの要約筆記も増えているようです。
当時はOHP(オーバーヘッドプロジェクター)の上にロール紙を乗せる手書きタイプが主でした。
筆記通訳は三人体制で行っていました。一人が主書き、もう一人が補助、残りの一人が休憩のパターンをローテーションで行っていました。

字幕入り映画の活動にも力を入れていました、当時の字幕映画は「まごのて」と「つばさ」の2つがありました 。
要約筆記サークルの活動も仕事で全国各地を飛び回るうちに自然と縁遠くなっていきました。


☆3.初めて転職(3/8)
1983年4月(18歳)
工業高校の電気科を卒業、通信メーカの孫会社に入社しました。

入社後は千葉県我孫子市、東北、横浜を廻り電子電話交換機の出荷試験、基板修理のスキルを習得しました、新入社員研修を終えて数年後に地元名古屋に戻りました、業務はサービスセンターで電子電話交換機、電話機の修理を行っていました。

当時の電話交換機は手動のステップバイステップ方式から機械式のクロスバー交換機を獲て電子交換機への過度期でした。
高校時代には電子工作が趣味で新しい基板の残す部分にマスキングテープを貼ってエッジング液に漬けて表面の銅板の不要部分を溶かして回路を作ります、部品を1点ずつハンダ付けをして完成になります。

マイコンの初期も制作したことがありますが外観はLEDとスイッチが剥きだして、プログラムを打ち込んでスタートさせてプログラム通りLEDが点滅する簡単なものですが無事に動作した時は感動を覚えました。
学研から電子ブロックという商品を販売されました、これははんだ付け不要で1cm角に部品を入っていて、部品を並べればラジオなどが出来るようになっています。これも親に頼んで教材として購入しました。

我孫子の工場でろう者と出会った事がきっかけで手話を知りボランティア活動のきっかけとなりました。
手話の全国集会で北海道に行った際に難聴者と出会い、要約筆記を始めました、その後は点訳、盲ろう者向け通訳・介助に繋がりました。

1988年(24歳)
名古屋の手話サークルの岡泉さんから、「わっぱの会がすずらん」と言う授産施設(福祉施設)を立上げのメンバー募集を知り「わっぱの会」を知らないまま転職しました。

1989年9月(24歳)

入ってみて「福祉」の理想と現実のパン作り、配達の毎日に想いとは大きく異なっていることに耐え切れずに数年で去ることになりました。

縁とは不思議なものでそこの施設長から20年以上経った時に電話で「介助アルバイトのお誘い」の電話がきっかけで、再び同じグループで働くことになりました。

授産施設退職後の就職先は高卒後に働いた職場から独立した会社でした。退職前と同じ修理部門ではなく電話設備の工事・メンテナンスの業務を行いました。

社員は数人で通信メーカーの孫会社でしたが、上司と同行で福岡に出張したりボーリング場やラブホテルの表示パネルの取り付け、配線を行ったりと楽しい中で仕事を行っていました。
時折アルバイトで日当が貰える仕事は嬉しかったです。

1994年1月(29歳)
1993年12月(29歳) 電話設備の工事・メンテナンス会社退職
-18歳~29歳 通信技術者・約10年務め結婚して家庭を持つことになりました。当時の給料では生活が難しいために上司や社長とも相談しました。解決策は見つからない状態で転職する事になりました。


☆4.やりたかった仕事に移ろうとしたが・・(4/8)
1994年1月(29歳) 電器メーカー(孫会社)入社

電器メーカーの孫会社で官公庁物件の現場監理が仕事でした、給料は前職の通信工事に比べて大きくupしました。入社当時のは「施工(現場)監理」の意味がよく分からずに、研修は無くて現場で技術を身に着けるスタイルで先方から叱られて、帰りの車を運転中に涙で前が見えなくなったこともありました、過ぎてしまえばいい思い出でした。

会社の指示で「一級電気施工管理技士」と「1種電気工事士」を取得しましたが後々まで資格が役立ちました。

当時はワープロが流行り出した時期でした、書類はまだ手書きで提出用と返却用の2部必要なために下にカーボンを引き複写式で作成しました。監理した仕事は道路上の計測機や監視装置、電力設備 、下水処理場の電気設備、太陽光発電設備、ETC設備等で毎回担当案件・客先が変わり常に勉強の日々でした。

2001年9月(36歳)電器メーカー(子会社)移籍

1994年1月に入社後は建設業界のルールが徐々に厳しくなりました官公庁工事では顕著に表れます。受注社の社員の確認が厳しくなって関連性のない孫会社の社員が元請けとして現場管理する事が難しくなりました。

このような状況下で会社の存続が厳しくなったために、社長の交渉で子会社(自社から見たら親会社)へ2001年9月(36歳)に転職する道筋を付けて頂き、若手の生活を安定して頂けました。退職間際には転職組3人と社長が一泊で下呂温泉に行ったことは今でも記憶に残っています。

その後約10年が経過した時に、通信(電話)工事がやりたい思いが浮かびました。
さすがに思いたって直ぐではなく計画的に行いました。転職活動を行って年末に内定を得て退職届けを提出しました、年明けに業績による内定取り消しの連絡がありました。

数人の会社でしたら辞表の撤回も社長の一存で可能でしたが、電器メーカーの子会社の社員になって一度提出した辞表の取り消しは人事まで回っていて取り消し不可能でした。

止む負えずに再就職先を探して、新たに受けた会社の面接では仕事の具体的は話しも出て好感触に合格すると思っていましたが、まさかの不採用には言いようのない落ち込みと不安感を覚えました。

2004月4月(39歳) 娯楽施設の電気工事店入社
現場監理職では仕事が見つからなかったのでハローワークの求人案内で見つけた近所の娯楽施設(パチンコ店)の電気工事店に2004年4月(39歳)に入社しました。

試用期間2ヶ月目の仕事終わりに喫茶店に呼ばれて会社は「工事が出来て、更に管理が出来る人」を求めているが条件が合わないので不採用の話しでした。

途方に暮れてバスに乗っている時に、フトもう会社存在しないかも知れないが送り出してくれた会社の上司に現状報告だけと思い電話をしました。

その一本の電話が活路を開くきっかけになりました、孫会社として子会社の社員を受け入れて業務を行っている事を聞きました。再雇用は子会社とトラブルを起こして退職した訳ではないので、孫会社の社員としては受入可能の連絡を頂きました。

会社は合併吸収になりましたが、電話を入れた時点で面識のある専務に人事権がある残り少ない期間だった事を後で知りました。


☆5.自分の行動が原因で職場を去る事に・はづき虹映さんとの出会い(5/8)
2004年6月(39歳)電器メーカーの孫会社(合併吸収)再就職

奇跡的に元の職場に戻れました。
親会社の方針で組織の統廃合が繰り返される時期でした。
会社は郵政省の民営化で一斉に全国の店舗に監視カメラが設置されたり、マクドナルドの機器のリプレイスで多忙を極めた時期でもありました。

2006年7月15日付知浄化センターの電気設備工事
2007年9月12日羽島上島 郵政民営化に伴う監視装置設置工事
などを担当しました。

1994年(29歳)に縁があってから職種が変わるまでの14年間は公共工事(電気)で交通量計測装置、受配電設備、伝送装置、下水道処理施設を毎回システムや場所が変わる刺激がある仕事が出来ました。

私が担当したETCの拡張工事も例外でなく、朝早くから夜遅くまで多忙な毎日を送っていました、ある時に飯田までの通いの中で自損事故を起こしたり、客先からのクレームで雲行きが怪しくなってきました。

現場事務所には子会社と孫会社(自社)の社員が入っていました、私は上司(入社時の専務)と一緒に(三重県)桑名管内を担当していましたが、上司の言動に腹がたったりして言わば奢り(自信過剰)で慢心の状況になりました。

それを見た所長から「飯田の現場担当で下請け業者さんの管理をしないか」の打診がありました。
上司としっくり行かない原因が自分にあるとも気づかずに単独で引き受けました。

後から上司から聞きましたが「当時の私には荷が重いので体裁を保つために補助にして鍛えていた、飯田の担当を聞いた時には嫌な感じがした」と言われました。

上司の見立てた通り力量不足で所長判断で補助を入れて頂きましたが、それでも慢心で周囲が見えない状況だったように今感じています。

ある時に朝早くから夜遅くまで休みがない現場で精神的に不安定になりある朝に遂に重荷に堪えきれずに親会社のコンプライアンス部門に超過勤務の指摘を入れました。親会社に労働環境の是正メールを入れた事がきっかけで退職せざる得ないところまで進みました。
冷静になって気づたのですが本来は上司に相談するか元同僚の所長に相談すべきでしたが、筋道を外してしまいました。

その夜には社長から投稿の件で電話がありました、物静かな口調で「違法な状況での勤務はさせられないので即刻帰社」の話しがありました。

所長からは配慮を頂き施工から外れてもメンテナンス部隊での残留を提案して頂きました。会社の方針は変わらずに(多分)面子を潰され親会社から厳しく言われたトップが激怒しているのが予想されました。

メールを出す前に「なぜ相談がなかったのか?」との上司の悲願を顔が今でも忘れられません。

その日を境に現場を外されアチコチの部署をたらい回し状態が続きました、新しい部署に就くと都度親会社からの指摘があったようで完全に現場に出られなくなりました、社内失業状態で社内の総務的な仕事を行う日々に変わってきました。

先の見えない毎日の中で書店で目についたのが「はづき虹映著・二週間で一生が変わる魔法の言葉(じゅもん)」で購入して読み終えてました。

社長から「親会社から暗に私へは仕事は出すな」の話しがあり、現在の待遇はどうしようもない事を聞きました。結論としては「急がなくて良いので次の職場を見つけるよう」と退職勧告でした。

そんな中で「はづき虹映さんの2週間で一生が変わる魔法の言葉(じゅもん)と出会い、見方を変えて「今出来る事の感謝を持って精一杯行う」事にしました。このような事態になったのは自らの責任で仕方ないとして、気遣いや心配して頂いた気持ちを当時理解出来ずにそれらの方への感謝の想いが欠けていた事を落ち着いて気づかさせて頂きました。

その言葉を聞いても不思議と落ちついていて「この職場は卒業」のイメージがありました、その日に初めてハローワークに行くと職安が閉まる寸前に求人案内が閲覧出来で次の仕事が見つかりました。

2009年9月(44歳) 同社退職
29歳~44歳 官公庁施工管理・約15年務めた仕事を退職しました。


☆6.初めての派遣会社に入って・鈴木真奈美さんとの出会い(6/8)

2009年10月(44歳)派遣会社入社

求人案内で目に留まったのは新しく立ち上がった派遣会社で、待遇が気になり面接時に 「派遣先がない時期」を質問に対して「自社の仕事があるので心配ない」の回答をあり、社員待遇との事で一応安心しまたのとピンと来たので申し込みました。

入社後に営業さんと派遣先を探しました。
1社目は電気工事技術者を求めている会社でした、資格はあるが現場作業の経験がないと伝えると不採用でした。
2社目は新しく開拓した大手の情報板メーカーでした、先方が全職とマッチして派遣が決まりました。

現場は1年目にトンネル防災(岡山)、道路情報板(三重)、2年目に路面冠水設備(姫路)、3年目に気象観測装置(大阪)と同じ設備はなく、案件ごとに地元の愛知に近づいてくる感じがしました。

職場の風通しが良かったので現場で辛い思いをしても、何でも話せる雰囲気でした。
一時は近い将来に社員になる話しもあり、まさかあのような事態になるとは想像していませんでした。

それは2011年12月から一年間の大阪出張中に起きました。
出張期間は大阪支店に席を置いて、歩いて数分のレオパレスに寝泊まりしていました、大阪の客先は一癖あって慣れないと大変と聞いていました。

慣れない客先で対応が後手後手になって先方から叱られる事が増えていきました、大阪の工事課長から先方に慣れた社員をサブで付けて頂きました。

しかし日が経つにつれて精神的に追い込まれていきました、2012年11月の山場を超えてあと数ヶ月で工期が終わる時に限界がやってきました。

どうしたら良いかわからない混乱した状況の中で鈴木真奈美さんの名古屋講演を知って申し込みました。講演の中で「自分を大切にする」大切さを聞いて何か光が見えた思いでした。

以前に身勝手な行動で失敗をしたために派遣元の営業さんに相談しました(入社時の営業さんは退職されて新しい方でした)
先方に迷惑を掛けてはいけないとの判断で現場責任者の変更を会社として申し出て頂きました。

大阪の工事課長は現場を途中で投げ出すことは許さない姿勢の方で交渉は難航しました。
更にその方が工事部長になる時期と重なり大阪の工事課長でしたら名古屋(本社)で何とか続ける方法もありましたがそれも難しく12月で出向復帰になりました。

奇しくも2010年から毎年青切符を切られる事が続いていました駐車違反、スピード違反、信号無視と・・

名古屋の工事課長には大変お世話になり、このような形で職場を去るのは申し訳なく思い、課長の了解を頂いて大阪からの帰り道に現場へ挨拶に行きました、そこで暖かい言葉を頂いて涙が止まりませんでした。

2013年1月(48歳)携帯の無線基地局の施工管理会社に派遣

新しく全く経験のない携帯電話の基地局設置の監理業務に派遣になりました。
朝はゆっくりの出社して帰りは終電帰りですが土・日・休日は出社禁止の通達があって完全休暇でした。
無線基地局の施工管理経験は全くなく、質問しようにも他の方は日中は電話・メール・訪問客対応で手一杯で定時時間が終わるまで対応が難しい状況でした。
こんな状況で全く業務に手付かずに仕事が溜まってくるとリーダーの指示で分散して処理する日課が恒例になりましたが、少しでも改善のために試行錯誤する毎日でした。

全くの放置状態で、自分なりにシステムの把握を精一杯努力しましたが3月に派遣の打ち切りが決まりました。後から聞くと期間限定の派遣だったようです。

2月末に会社から「3月中に次の派遣先が見つからなければ解雇」の連絡があり入社時に派遣先がない時の待遇も保証するの約束も当時の担当者は入れ替わっていた無効になりました。次の派遣先を営業さんにお願いする傍らでインターネットで見つけた転職案内会社に登録しました。

派遣先の開拓に手を尽くしましたが見つらかずに退職に至りました。

2013月3月(48歳) 派遣会社退職


☆7.初の民間工事の仕事をして(7/8)
2013年4月(48歳)太陽光発電の総合商社入社
ネットによる就職活動を始め転職案内会社の希望する職種は今までの経験が生かして下水道処理の電気設備か太陽光発電を考えていました。
下水道は機械的な要素が多いので純粋に電気が好きの理由で太陽光発電を選びました。親身の担当者に当たり次の会社は太陽光発電の総合商社の工事部門に社員として決まりました。

民間相手の会社へは初めての就職しました。入社した会社は中小企業ですがコンプライアン (法令遵守)が厳しい会社で、諸法令に基づいて仕事を行っているので官公庁相手の仕事との違和感はありませんでした。入社後は早速大阪に出張して改修工事に従事しました、

入社時の担当現場三重県伊賀市の工場の屋根にパネルを設置して高圧連係する現場担当の予定でしたが諸事情で契約が遅れて三重県伊勢市の野原の中にパネルを設置して区分ごとに低圧連係する現場担当になりました。

奇しくも伊勢神宮の遷宮祭と重なり宿に苦労しました、工事は当社が元請けで下に二社あります。一社は太陽パネルを設置する基礎の設置業者、もう一社は協力店登録のある電気工事業者です。

当初は基礎設置の二週間は現場常駐の予定でしたが、終わる間際に現場で事故が起きました。
施工部隊が立ち上がってから初の労災事故が発生して、事故対応で労働基準監督署に追われました、これが原因で完工までの3ヶ月間現場常駐になりました。
弱り目に祟り目で現場事故に続いて交通事故(自損)などが連続しました、途中で気を取り直して予定の期限内に完工しました。

以前に官公庁工事で他社が事故を起こした際の責任者の心痛が始めて分かった気がしました 、労働基準監督署対応は同様かと思いますが発注機関との対応は想像を絶する心労があった事を理解しました。

この現場が終わる頃でしょうか25年以上前に勤めた授産施設の施設長からの電話がきっかけで介助のアルバイトを行うようになりました。
次の担当現場の伊賀が翌年2014年の5月のGW明けから始まることが判明したので1月~4月までの毎週日曜日に介護職員初任者研修を受講して資格を取りました。

2年目は三重県伊賀市で高圧連携で工場の屋根に太陽パネル設置現場を担当しました。

工事は順調に進んで予定通り5月から現場が始まり8月に終わりました。上司との間に徐々に軋轢が広がっていきました。きっかけは社内通達があった処理をしない=上司を無視していると注意を受けたことからでした。通達は全て社内の電子掲示板で行われますが改正や発信量が多すぎて把握出来ずに誤った社内処理をしては上司の怒りをかっていました。

そんなことがあって、この上司の元には居たくないの想いが強まっていきました。人間関係で問題が発生したのは始めての経験でした。
現場処理が落ち着いた9月始めに上司へ進退伺いをすると即退社承認されました。
ただ8月、9月と退職者が続くことで周囲の動揺を減らすために10月退社、直前までは周囲に内密にするように指示がありました。

私の退社が社内の電子掲示板で退職が公になった後に送別会をして頂きました、その帰りに営業課長から技術者が次々に辞めている事に心を痛めている事を知りました。


☆8.新たな職種に就くまで(8/8)
2014年11月(49歳)大手太陽光発電の工事会社入社
大手の太陽光発電の工事会社に電工として入社しました、きっかけはネットの転職情報からでした。

この頃は今まで施工管理の経験を生かせば転職は楽になると分かっていましたが、全国を転々と現場管理を行う業務には関心がなくなり日帰りで現場作業員(電気工事士)に魅力が出てきました。ただ施工管理会社が手当てとして支給している現場管理手当てや出張手当ての小遣いが無くなる事が気がかりでしたが興味を優先させました。

現場作業員の経験がない事を面接で伝えての一次面接(試験)は合格して二次面接に望みました。
自宅近くの名古屋支店の希望がありましたが、面接時に岐阜営業所勤務は可能かの質問に「大丈夫」と答えたために二次面接は配属予定の岐阜営業所で行われました。

一次面接が通ったあとに名古屋支店勤務の気持ちが湧き上がり、本社の人事部へ配属先の要望連絡を入れました、希望は二次面接で伝えて下さいとの事です。

場所は事前に確認済みでしたが見つからずにまさかの30分以上の遅刻でした、更に勤務先変更を伝えましたので二次面接は不合格を覚悟していましたがまさかの合格通知がありました。

二週間の研修では基礎的な挨拶、清掃等の鍛錬が続きました。

印象深かったのは新人教育で教育センターに二週間缶詰めで埃1つない掃除の訓練とセンター内の挨拶の実施及び24km競歩で目標は「グループ全員で時間内に帰着」でした、途中でもう駄目かと思いましたが励まされ目標を達成したことです。

配属先の勤務状況は厳しくでは朝は8時半とありましたが現場着の時間なので7時過ぎに出社でした。そのために5時半起きで夜は22時、23時との事でした(入社当初でしたので私の帰りは20時、21時で帰れました)また休みは月1回で現場の都合で明日は休みと言った感じでした。

合わせて上司から目の敵にされている感じがして同僚に聞くと、その上司は自分が持っている電気の資格と同等以上の人が入って来るとライバル意識を燃やすタイプだと分かりました。

この会社を受ける前にアルバイト先の介護事業者で面接を受けて合格しましたが、手当の支給は数年間の勤めた後に満額支給でそれまでは減額支給でした。給料総額を家内と検討しましたが高校の下の娘が在学中はやりくり出来ないので卒業後の再来年まで待つように話しがありました。

良い所があればと思って転職情報誌を見ると「社員第一」の「通信会社」が社員募集していたので面接を受けました。

社長と面接が行われ即不合格でした、理由を伺うと「通信工事に対する意欲(質問)より圧倒的に給料や保険加入の待遇の質問が圧倒的に多いので仕事を手段として取り組むように感じられ職務に意欲が感じられない、通信工事の再開が夢と聞いたが入社すれば夢が現実になる。」でした。
私(社長)の思いとして「スキルは充分あり雇用すれば社員は楽になると思うが待遇面で不満が出て去っていく」イメージがあり不安が残るためでした。
生活のために仕事に就く心の内が見透かされ、通信工事に対する以前の気持ちが失われた事に気付かせて頂きました。

まずは今の仕事を誠心誠意勤める事が優先するのではとアドバイスまで頂きました。それをきっかけに過労死するまで働こうと気持ちが切替りました。反省を生かして死ぬまでやる気でいました。

心境が変わると家内から大変なら介護の仕事に変わってもよいの話しがありました。どう事態が変わったか分かりませんが、今のまま続けて体を壊しては大変と転職の同意が出ました。

上司の対応は相変わらずでしたが同僚から電気工事を教えて頂けるようになりました、ただ上司には思っている事を言えない環境に疑問を持ちました。ある日に自分の本音を伝えると上司は激怒して退社につながりました。自分の勝手な意見を言うのはどうかと思いますが自分の思いは伝えたほうが良いと思います。

2014年12月(50歳)大手太陽光発電の工事会社退職
44歳~50歳 派遣会社と工事会社を約5年務めました。

退職後の翌年(翌月)に営業の同僚から準社員(入社後3ケ月以内の試用期間の社員)に退職勧告が行われ退職する連絡がありました、暫くたった時に「太陽光ブームで社員を千人増員の予定が目論みが外れて収益が悪化したために増員分のリストラがあった事」を知りました
結果的に上司の顔色を窺っていても退職する可能性が高かったように思いました。

2015年1月(50歳)
今まで建設業の現場工事、現場監理から50歳にして始めてのわっぱの会を母体とする生活援助ネットワーク(介護職)に転職になりました。1988年(24歳)の25年前の縁がきっかけでした。