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自己紹介-履歴書

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【INDEX】

☆1.新社会人になって手話との出会い(1/11)

☆2.要約筆記との出会い(2/11)


☆3.初めて転職(3/11)
1983年4月(18才)
工業高校の電気科を卒業、通信メーカの孫会社に入社しました。

入社後は千葉県我孫子市、東北、横浜を廻り電子電話交換機の出荷試験、基板修理のスキルを習得しました。
我孫子の工場でろう者と出会った事がきっかけで手話を知りボランティア活動のきっかけとなりました。
手話の全国集会で北海道に行った際に難聴者と出会い、要約筆記を始めました、その後は点訳、盲ろう者向け通訳・介助に繋がりました。

1988年(24才)
名古屋の手話サークルのメンバーから「わっぱの会がすずらん」と言う授産施設(福祉施設)を立ち上げのメンバー募集を知り「わっぱの会」を知らないまま転職しました。

1989年9月(24才)
障がい者との関わりはあるものの「パン作り、配達」に馴染めずに転職しました。
行先は直前の会社から独立した会社でした、仕事内容は宅内の電話工事、メンテナンスでした。現場仕事の大変さと楽しさを知りました。

1994年1月(30才)
1993年12月(29歳) 電話設備の工事・メンテナンス会社退職
-18歳~29歳 通信技術者・約10年-結婚を理由に転職しました。
転職先は電機メーカーの孫会社で、会社の指示で「一級電気施工管理技士」と「1種電気工事士」を取得しましたが後々まで資格が役立ちました。


☆4.やりたかった仕事に移ろうとしたが・・(4/11)
1994年1月(29歳) 電器メーカー(孫会社)入社

2001年9月(36才)電器メーカー(子会社)入社
会社が傾き始めたので社長の斡旋で同じ電気メーカの子会社に再就職、送別会で一泊した温泉が忘れられません。
通信(電話)工事が再度したいと思い通信会社の子会社への内定が決まり辞表を提出した翌年に内定取り消しの連絡がありました。
その後に通信工事の応募をしましたが面接で不採用になり諦めがつきました。
職安で自宅近くの娯楽施設の電気工事の監督募集に応募するも試用期間の2ヶ月で不採用になりました。
理由は現場作業員とのコミュニケーション不足との事でした。

2004月4月(39歳) 娯楽施設の電気工事店入社


☆5.自分の行動が原因で職場を去る事に・はづき虹映さんとの出会い(5/11)
2005年6月(40才)電器メーカーの孫会社(合併吸収)再就職
途方に暮れてもうないかと思っていた傾きかけた会社の元上司の連絡をすると、その後私が斡旋頂いた会社と合併して技術者募集中を知りました。
給与に多少の不満はあるものの勝手知ったるメンバーなので就職させて頂きました。

一部ですが
2006年7月15日付知浄化センターの電気設備工事
2007年9月12日羽島上島 郵政民営化に伴う監視装置設置工事
などを担当しました。

・1994年(30才)に縁があってから職種が変わるまでの14年間は公共工事(電気)で交通量計測装置、受配電設備、伝送装置、下水道処理施設を毎回システムや場所が変わる刺激がある仕事が出来ました。

ある時に朝早くから夜遅くまで休みがない現場で精神的に不安定になり親会社に労働環境の是正メールを入れた事がきっかけで退職せざる得ないところまで進みました。

メールを出す前に「なぜ相談がなかったのか?」との上司の悲願を顔が今でも忘れられません。

始めは仕事がなくなり社内での仕事ばかりになり、人生初めての意図しない退職に向かい混乱をしていました。

そんな中で「はづき虹映さんの2週間で一生が変わる魔法の言葉(じゅもん)と出会い、見方を変えて「今出来る事の感謝を持って精一杯行う」事にしました。

仕事が終わり職安が閉まるぎりぎりに求人募集を見にいきましたが、不思議な誘導で無事に求人案内が閲覧出来ました。

2009年9月(44歳) 同社退職
-29歳~44歳 官公庁施工管理・約15年-


☆6.初めての派遣会社に入って・鈴木真奈美さんとの出会い(6/11)

2009年10月(44才)派遣会社入社
大手の情報板メーカー転籍

目に留まったのは派遣会社で気になりましたがピンと来たので申し込みました。
社員待遇との事で一応安心しました。
1社目は電気工事の仕事で経験がない事で不採用
2社目は今回新規開発した会社(道路情報板メーカ)らしいですが全職ともマッチして派遣が決まりました。
仕事内容は道路情報板(岡山県)、路面冠水表示板(姫路市)、気象観測装置(大阪)とシステムも場所も全く事なっていました。

2011年11月-2012年12月(47才)
大阪出張中にセラピーに興味を持ちセミナーを受けました。
・メンタルケア アドバイザー
・EFT
・レイキ
・TCカラーセラピー
そして多くにセラピストに出会いました。

大阪での厳しい毎日に耐えきれずに、『鈴木真奈美さんの講演、書籍』がきっかけになり『自分を大切にする意味』で心情を派遣元の営業に伝えました。

2013年1月(48才)携帯の無線基地局の施工管理会社に派遣
新しく全く経験のない携帯電話の基地局設置の監理業務に派遣が決まりました。
全くの放置状態で、自分なりにシステムの把握を精一杯努力しましたが3月に派遣の打ち切りが決まりました。
後から聞くと期間限定の派遣だったようです。

次の派遣先が決まらなければ解雇の話しが2月末にありました。

2013月1月(48歳) 派遣会社退職


☆7.セラピーの学び・大阪編(7/11)


☆8.初の民間工事の仕事をして(8/11)
2013年4月(48才)太陽光発電設備を扱う商社に入社
ネットによる就職活動を始め親身の担当者に当たり次の会社は太陽光発電の総合商社の工事部門に社員として決まりました。
高圧の野点(三重県伊勢市)と屋根(三重県伊賀市)の現場を担当しました。
今まで経験した事が無いような上司とのトラブルが発生、拠点が違うために月1度か電話の対応だけなんですがどうしても耐えきれず転職を考える。今となっては何故そこまで苦手だったか不明です。


☆9.新たな職種に就くまで(9/11)
2014年11月(49才)大手太陽光発電の工事会社入社
太陽光発電の大手会社に電工として入社しました。
二週間の研修では基礎的な挨拶、清掃等の鍛錬が続きました。

配属先では始業の1時間前出勤のために5時半起きで夜は22時、23時との事でした(入社当初でしたので私の帰りは20時、21時で帰れました)また休みは月1回で現場の都合で明日は休みと言った感じでした。

私は今までの反省を生かして死ぬまでやる気でいました。

しかし意図せぬ転機がありました。
昨年の10月から24歳の時に出会った会が介助事業を初めて仕事の休みに介助者をやっていました。
出来れば仕事としてやりたいと家内に伝えましたが、月収が半分以下のために来年の3月に下の娘が高校を卒業するまで待つ話しがありました。

どう事態が変わったか分かりませんが、今のまま続けて体を壊しては大変と転職の同意が出ました。

2014年12月(50歳)大手太陽光発電の工事会社退職
-44歳~50歳 派遣会社/工事会社・約5年-

2015年1月(50才)
今まで建設業の現場工事、現場監理から50歳にして始めてのわっぱの会を母体とする生活援助ネットワーク(介護職)に転職になりました。1988年(24才)の25年前の縁がきっかけでした。


☆10.セラピーとの関わり・地元名古屋編(10/11)

☆11.点字・盲ろう者との出会い(11/11)

☆1.新社会人になって手話との出会い

手話を知ったきっかけとその後です。

高校卒業後に入社した会社の新入社員研修で、千葉県我孫子市に長期滞在することになりました。地元名古屋から出たことは殆どなかったので、不安と期待が入り混じっての出発でした。

入社した会社は大手通信メーカーの工事部門(子会社)で新しく立ち上げた品質管理部門の出荷前検査や修理が出来るように研修が行われました。
千葉県・東北・横浜と関東を転々としてOJT(On Job the training-実際に仕事をしながらの研修)を行っていました。

我孫子工場で聾の青年と出会ったのがきっかけで工場の昼休みに手話勉強をしたり、手賀の会(手話サークル)に入会しました。
その流れで全国手話通訳問題研究会(全通研)に入会しました。初めて参加した北海道集会で衝撃な出会いがあったり(次回紹介します)と刺激的な毎日が続きました。

研修期間を終えて地元名古屋に戻り名古屋市北区の北手話サークルに入会しました 。当時の会長は小松さん(女性)がされて岡泉さん(男性)が新しく自主手話講座を立ち上げた時期でした。

自主手話講座の特徴は今までの健聴者主導の手話サークルから聾者主体を目標にして、手話の技術だけでなく聾者の生活から学ぶことに重点をおいて、手話に限らずに親の居ない子供の施設訪問や盲ろう者友の会の全身となった交流会など、今までの手話サークルの枠に捕らわれない斬新なスタイルに刺激を受けました。

大晦日に宣伝用チラシ造りや泊まり込みの会議は他の手話サークルでは味わえない体験でした。
そのためか他の手話サークルには馴染めずに暫くは手話から遠のいていました。

仕事の出張はホテルか民宿で泊まっていましたが、初めてマンションを借りての寝泊まりをする下水処理施設の電気設備工事の現場がありました。
そこは三重県玉城町で時間に余裕があったので町内にあった手話勉強会に興味を持って見学しました、アットホームなムードに惹かれて出張が終わるまで通いました。そこが最後の「手話サークル」となりました。

最後に参加したのはバザーの行事でした、行事が終わり帰りがけの空にかかった天使の梯子がとても印象的でした、例会とは別に送別会並びに記念本まで頂いた感慨深いサークルでした。

☆2.要約筆記との出会い

1回目の全国手話通訳問題研究会の北海道集会の出来事からです。

工場で聾者と出会った経験から聴覚障害者=聾者=手話と思い込んでいました。
しかし北海道集会に参加した難聴者から一部聞き取れる時もあるので聾者とは違った苦労や悩みがある事、手話だけでは通じない聴覚障害者がいる事を知りました。

その出会いがきっかけで名古屋に戻った時に要約筆記等研究連絡会「まごのて」のメンバ ーとして活動する事になりました。

活動内容の1つに要約筆記派遣対応があります、現在はパソコンの要約筆記も増えているようです。
当時はOHP(オーバーヘッドプロジェクター)の上にロール紙を乗せる手書きタイプが主でした。
筆記通訳は三人体制で行っていました。一人が主書き、もう一人が補助、残りの一人が休憩のパターンをローテーションで行っていました。

字幕入り映画の活動にも力を入れていました、当時の字幕映画は「まごのて」と「つばさ」の2つがありました 。
要約筆記サークルの活動も仕事で全国各地を飛び回るうちに自然と縁遠くなっていきました。

☆3.初めて転職

仕事の話しです。

1回目にも書きましたが1983年4月高卒後にすぐに関東で新入社員研修を終えて数年後に地元名古屋に戻りました、業務はサービスセンターで電子電話交換機、電話機の修理を行っていました。

当時の電話交換機は手動のステップバイステップ方式から機械式のクロスバー交換機を獲て電子交換機への過度期でした。
高校時代には電子工作が趣味で新しい基板の残す部分にマスキングテープを貼ってエッジング液に漬けて表面の銅板の不要部分を溶かして回路を作ります、部品を1点ずつハンダ付けをして完成になります。

マイコンの初期も制作したことがありますが外観はLEDとスイッチが剥きだして、プログラムを打ち込んでスタートさせてプログラム通りLEDが点滅する簡単なものですが無事に動作した時は感動を覚えました。
学研から電子ブロックという商品を販売されました、これははんだ付け不要で1cm角に部品を入っていて、部品を並べればラジオなどが出来るようになっています。これも親に頼んで教材として購入しました。

1988年(24歳)のある日に岡泉さん(手話サークルの方)から北区に新しく授産施設が出来るので人を募集している事を聞いて、深く考える事なく会社を退職しました。
入ってみて「福祉」の理想と現実のパン作り、配達の毎日に想いとは大きく異なっていることに耐え切れずに数年で去ることになりました。
そこの施設長から20年以上経った時に電話で「介助員募集」の連絡がきっかけで、再び同じグループで働くことになって人生の面白さを感じました。

授産施設退職後の就職先は高卒後に働いた職場から独立した会社でした。退職前と同じ修理部門ではなく電話設備の工事・メンテナンスの業務を行いました。

社員は数人で通信メーカーの孫会社でしたが、上司同行で福岡に出張したりボーリング場やラブホテルの表示パネルの取り付け、配線を行ったりと楽しい中で仕事を行っていました。
時折アルバイトで日当が貰える仕事は嬉しかったです。

その後に結婚して家庭を持つことになりました。当時の給料では生活することが難しいために上司や社長とも相談しましたが解決策は見つからない状態で1993年12月(29歳)に転職する事になりました。

仕事は楽しかったので転職先には言えませんでしたが不本意の気持ちで退職したのが本音でした。

☆4.やりたかった仕事に移ろうとしたが・・

1994年1月(29歳)に結婚がきっかけで新しい会社に入社しました。
会社は電器メーカーの孫会社で官公庁物件の現場監理が仕事でした、給料は前職の通信工事に比べて大きくupしました。
入社当時のは「施工(現場)監理」の意味がよく分からずに、研修は無くて現場で技術を身に着けるスタイルでしたので先方から叱られて、帰りの車を運転中に涙で前が見えなくなったこともありましたが、過ぎてしまえばいい思い出でした。

当時はワープロが流行り出した時期でした、書類はまだ手書きで提出用と返却用の2部必要なために下にカーボンを引き複写式で作成しました。
監理した仕事は道路上の計測機や監視装置、電力設備 、下水処理場の電気設備、太陽光発電設備、ETC設備等毎回担当案件・客先が変わり常に勉強の日々でした。

約10年が経とうした時に、通信(電話)工事がやりたい思いが浮かびました。
さすがに思いたって直ぐではなく計画的に行いました。転職活動を行って年末に内定を得て退職届けを提出しました、年明けに業績による内定取り消しの連絡がありました。
社内では退職届けが人事まで回っていて取り消し不可能でした、その時は入社当時とは状況が大きく変わっていました。

1994年1月に入社後は建設業界のルールが徐々に厳しくなりました官公庁工事では顕著に表れます。受注社の社員の確認が厳しくなって関連性のない孫会社の社員が元請けとして現場管理する事が難しくなりました。
このような状況下で会社の存続が厳しくなったために、社長の交渉で子会社(自社から見たら親会社)へ2001年9月(36歳)に転職する道筋を付けて頂き、若手の生活を安定して頂けました。退職間際には転職組数人と社長が一泊で下呂温泉に行ったことは今でも記憶に残っています。

そんな経過があり数人の会社でしたら辞表の撤回も社長の一存で可能でしたが、電器メーカーの子会社の社員になって一度提出した辞表の取り消しは不可能でした。

止む負えずに再就職先を探して、新たに受けた会社の面接では仕事の具体的は話しも出て好感触に感じたので、合格するものと思っていましたが、まさかの不採用には言いようのない落ち込みと不安感を覚えました。

現場監理職では仕事が見つからなかったので近所の娯楽施設(パチンコ店)の電気工事店に2004年4月(39歳)に入社しました、試用期間2ヶ月目の仕事終わりに喫茶店に呼ばれて会社は「工事が出来て、更に管理が出来る人」を求めているが条件が合わないので不採用の話しでした。

そののちに途方に暮れてバスに乗っている時に、フトもう会社はないかも知れないが送り出してくれた会社の上司に現状報告だけと思い電話をしました。

その一本の電話が活路を開くきっかけになりました、何と正式なグループ会社として子会社の社員を受け入れて孫会社として業務を行っている事を聞きました。再雇用は子会社とトラブルを起こして退職した訳ではないので、孫会社の社員としては受入可能の連絡を頂きました。

会社は合併吸収になりましたが、電話を入れた時点で専務に人事権がある残り少ない期間だった事を後で知りました。
このまま生涯勤めると思っていたら5年後には思いもよらない事態が発生して、ピンチになり地獄を味わう中でスピリチュアルとの出会いがありました。

☆5.自分の行動が原因で職場を去る事に・はづき虹映さんとの出会い

2004年6月(39歳)に奇跡的に元の職場に戻れました。
親会社の方針で組織の統廃合が繰り返される時期でした。
会社は郵政省の民営化で一斉に全国の店舗に監視カメラが設置されたり、マクドナルドの機器のリプレイスで多忙を極めた時期でもありました。

私が担当したETCの拡張工事も例外でなく、朝早くから夜遅くまで多忙な毎日を送っていました、ある時に飯田までの通いの中で自損事故を起こしたり、客先からのクレームで雲行きが怪しくなってきました。

現場事務所には子会社と孫会社(自社)の社員が入っていました、私は上司(入社時の専務)と一緒に(三重県)桑名管内を担当していましたが、上司の言動に腹がたったりして言わば奢り(自信過剰)で慢心の状況になりました。

それを見た所長から「飯田の現場担当で下請け業者さんの管理をしないか」の打診がありました。
上司としっくり行かない原因が自分にあるとも気づかずに単独で引き受けました。

後から上司から聞きましたが「当時の私には荷が重いので体裁を保つために補助にして鍛えていた、飯田の担当を聞いた時には嫌な感じがした」と言われました。

上司の見立てた通り力量不足で所長判断で補助を入れて頂きましたが、それでも慢心で周囲が見えない状況だったように今感じています。

ある朝に遂に重荷に堪えきれずに親会社のコンプライアンス部門に超過勤務の指摘を入れました。
冷静になって気づたのですが本来は上司に相談するか元同僚の所長に相談すべきでしたが、筋道を外してしまいました。

その夜には社長から投稿の件で電話がありました、物静かな口調で「違法な状況での勤務はさせられないので即刻帰社」の話しがありました。

所長からは配慮を頂き施工から外れてもメンテナンス部隊での残留を提案して頂きました。会社の方針は変わらずに(多分)面子を潰され親会社から厳しく言われたトップが激怒しているのが予想されました。

その日を境に現場を外されアチコチの部署をたらい回し状態が続きました、新しい部署に就くと都度親会社からの指摘があったようで完全に現場に出られなくなりました、社内失業状態で社内の総務的な仕事を行う日々に変わってきました。

先の見えない毎日の中で書店で目についたのが「はづき虹映著・二週間で一生が変わる魔法の言葉(じゅもん)」で購入して読み終えてました。

社長から「親会社から暗に私へは仕事は出すな」の話しがあり、現在の待遇はどうしようもない事を聞きました。結論としては「急がなくて良いので次の職場を見つけるよう」と退職勧告でした。

このような事態になったのは自らの責任で仕方ないとして、気遣いや心配して頂いた気持ちを当時理解出来ずにそれらの方への感謝の想いが欠けていた事を落ち着いて気づかさせて頂きました。

その言葉を聞いても不思議と落ちついていて「この職場は卒業」のイメージがありました、その日に初めてハローワークに行くと不思議な流れで次の仕事が見つかりました。

退職は2009年9月(44歳)でした、この後は短期の間に今までに経験したことがなかったトラブルが立て続けに起きてきました。

☆6.初めての派遣会社に入って・鈴木真奈美さんとの出会い

転職先は新しく立ち上がった派遣会社に入社しました。
面接時に待遇に不安があったため 「派遣先がない時期」を質問に対して「自社の仕事がある」ので心配ないの回答を頂きました。

入社後に営業さんと派遣先を探しました。
一社目は電気工事技術者を求めている会社でした、資格はあるが現場作業の経験がないと伝えると不適合でした。
二社目は新しく開拓した大手の情報板メーカーでした、先方の要望及び経歴はピッタリと適合しました。
派遣ではなく転籍出向の形で保険証と給料は転籍会社から、賞与は派遣先会社から支給されました。

2009年10月(44歳)に入社及び転籍になりました。
現場は一年毎にトンネル防災(岡山)、道路情報板(三重)、路面冠水設備(姫路)、気象観測装置(大阪)と同じ設備はなく、案件ごとに地元の愛知に近づいてくる感じがしました。

職場の風通しが良かったので現場で辛い思いをしても、何でも話せる雰囲気でした。
一時は近い将来に社員になる話しもあり、まさかあのような事態になるとは想像していませんでした。

それは2011年12月から一年間の大阪出張中に起きました。
出張期間は大阪支店に席を置いて、歩いて数分のレオパレスに寝泊まりしていました、大阪の客先は一癖あって慣れないと大変と聞いていました。

慣れない客先で対応が後手後手になって先方から叱られる事が増えていきました、大阪の工事課長から先方に慣れた社員をサブで付けて頂きました。

しかし日が経つにつれて精神的に追い込まれていきました、2012年11月の山場を超えてあと数ヶ月で工期が終わる時に限界がやってきました。

どうしたら良いかわからない混乱した状況の中で鈴木真奈美さんの名古屋講演を知って申し込みました。講演の中で「自分を大切にする」大切さを聞いて何か光が見えた思いでした。

以前に身勝手な行動で失敗をしたために派遣元の営業さんに相談しました(入社時の営業さんは退職されて新しい方でした)
先方に迷惑を掛けてはいけないとの判断で現場責任者の変更を会社として申し出て頂きました。

大阪の工事課長は現場を途中で投げ出すことは許さない姿勢の方で交渉は難航しました。
更にその方が工事部長になる時期と重なり大阪の工事課長でしたら名古屋(本社)で何とか続ける方法もありましたがそれも難しく12月で出向復帰になりました。

奇しくも2010年から毎年青切符を切られる事が続いていました駐車違反、スピード違反、信号無視と・・

名古屋の工事課長には大変お世話になり、このような形で職場を去るのは申し訳なく思い、課長の了解を頂いて大阪からの帰り道に現場へ挨拶に行きました、そこで暖かい言葉を頂いて涙が止まりませんでした。

2013年1月(48歳)からは新しく携帯の無線基地局の施工管理会社に派遣になりました。
朝はゆっくりの出社して帰りは終電帰り、土・日・休日は出社禁止の通達があって完全休暇でした。
無線基地局の施工管理経験は全くなく、質問しようにも他の方は日中は電話・メール・訪問客対応で手一杯で定時時間が終わるまで対応が難しい状況でした。
こんな状況で全く業務に手付かずに仕事が溜まってくるとリーダーの指示で分散して処理する日課が恒例になりましたが、少しでも改善のために試行錯誤する毎日でした。その後は予定していたかのように3月末で派遣切れになりました。

2月末に会社から「3月中に次の派遣先が見つからなければ解雇」の連絡がありました、入社時に派遣先がない時の待遇も保証するの約束も当時の担当者は入れ替わっていた無効になりました、派遣先の開拓に手を尽くしましたが見つらかずに退職に至りました。

☆7.セラピーの学び・大阪編

2011年12月から2012年12月まで大阪出張中は出張手当がついて金銭的には余裕があるが、仕事では精神的に厳しい日々が続く中で集中的にセラピー資格を取得しました。その内容をご紹介します。
何れもセッション可能ですので声かけをして頂ければと思います。

〇セラピー【資格】
EFT Japan・プラクティショナー
レベル1受講:2011年12月17日
レベル2受講:2012年 1月21日

メンタルケア・アドバイザー講座
申込み:2012年2月20日
学習開始:2012年2月23日
*5年間有効

レイキ
1st:2012年6月17日伝授
2nd:2012月7月9日伝授
3rd:2012年8月6日伝授

TCカラーセラピスト 2012年9月22日
TCマスターカラーセラピスト 2012年10月13日

ワンセルフカードセラピスト
2012年12月20日

☆8.初の民間工事の仕事をして

6回目の続きです。

2013年3月までの1ヶ月間に次の派遣先を見つけなれば解雇を連絡を受けて、営業さんにお願いする傍らでインターネットで見つけた転職案内会社に登録しました。

3月末までに次の派遣先が見つからずに退職に至りました。
転職案内会社の希望する職種は今までの経験が生かして下水道処理の電気設備か太陽光発電を考えていました。
下水道は機械的な要素が多いので純粋に電気が好きの理由で太陽光発電を選びました。

2013年4月(48歳)に太陽光発電設備を扱う商社に技術者として入社しました、民間相手の会社へは初めての就職しました。
入社した会社は中小企業ですがコンプライアン (法令遵守)が厳しい会社で、諸法令に基づいて仕事を行っているので官公庁相手の仕事との違和感はありませんでした。

入社後は早速大阪に出張して改修工事に従事しました、その後は三重県伊賀市の工場の屋根にパネルを設置して高圧連係する現場担当の予定でした。

諸事情で契約が遅れて三重県伊勢市の野原の中にパネルを設置して区分ごとに低圧連係する現場担当になりました。

奇しくも伊勢神宮の遷宮祭と重なり宿に苦労しました、工事は当社が元請けで下に二社あります。
一社は太陽パネルを設置する基礎の設置業者、もう一社は協力店登録のある電気工事業者です。

当初は基礎設置の二週間は現場常駐の予定でしたが、終わる間際に現場で事故が起きました。
施工部隊が立ち上がってから初の労災事故が発生して、事故対応で労働基準監督署に追われました、これが原因で完工までの3ヶ月間現場常駐になりました。
弱り目に祟り目で現場事故に続いて交通事故(自損)などが連続しました、途中で気を取り直して予定の期限内に完工しました。

以前に官公庁工事で他社が事故を起こした際の責任者の心痛が始めて分かった気がしました 、労働基準監督署対応は同様かと思いますが発注機関との対応は想像を絶する心労があった事を理解しました。

この現場が終わる頃でしょうか25年以上前に勤めた授産施設の施設長からの電話がきっかけで介助のアルバイトを行うようになりました。
次の担当現場の伊賀が翌年2014年の5月のGW明けから始まることが判明したので1月~4月までの毎週日曜日に介護職員初任者研修を受講して資格を取りました。

予定通り5月から現場が始まり8月に終わりましたが、上司との間に徐々に軋轢が広がっていきました。
きっかけは社内通達があった処理をしない=上司を無視していると注意を受けたことからでした。
通達は全て社内の電子掲示板で行われますが改正や発信量が多すぎて把握出来ずに誤った社内処理をしては上司の怒りをかっていました。

そんなことがあって、この上司の元には居たくないの想いが強まっていきました。人間関係で問題が発生したのは始めての経験でした。
現場処理が落ち着いた9月始めに上司へ進退伺いをすると即退社承認されました。
ただ8月、9月と退職者が続くことで周囲の動揺を減らすために10月退社、直前までは周囲に内密にするように指示がありました。

私の退社が社内の電子掲示板で告知後に送別会をして頂きました、その帰りに営業課長から技術者が次々に辞めている事に心を痛めている事を知りました。

☆9.新たな職種に就くまで

2014年11月(49歳)から新しく大手の太陽光発電の工事会社に入社しました、きっかけはネットの転職情報からでした。

この頃は今まで施工管理の経験を生かせば転職は楽になると分かっていましたが、全国を転々と現場管理を行う業務には関心がなくなり日帰りで現場作業員(電気工事士)に魅力が出てきました。
ただ施工管理会社が手当てとして支給している現場管理手当てや出張手当ての小遣いが無くなる事が気がかりでしたが興味を優先させました。

現場作業員の経験がない事を面接で伝えての一次面接(試験)は合格して二次面接に望みました。
自宅近くの名古屋支店の希望がありましたが、面接時に岐阜営業所勤務は可能かの質問に「大丈夫」と答えたために二次面接は配属予定の岐阜営業所で行われました。

一次面接が通ったあとに名古屋支店勤務の気持ちが湧き上がり、本社の人事部へ配属先の要望連絡を入れました、希望は二次面接で伝えて下さいとの事です。

場所は事前に確認済みでしたが見つからずにまさかの30分以上の遅刻でした、更に勤務先変更を伝えましたので二次面接は不合格を覚悟していましたがまさかの合格通知がありました。

勤務状況は厳しく朝は8:30とありましたが現場着の時間なので7:00過ぎに出社、20,21時帰社で休日は月1回あれば上等でした。

印象深かったのは新人教育で教育センターに二週間缶詰めで埃1つない掃除の訓練とセンター内の挨拶の実施及び24km競歩で目標は「グループ全員で時間内に帰着」でした、途中でもう駄目かと思いましたが励まされ目標を達成したことです。

上司から目の敵にされている感じがして同僚に聞くと、その上司は自分が持っている電気の資格と同等以上の人が入って来るとライバル意識を燃やすタイプだと分かりました。

この会社を受ける前にアルバイト先の介護事業者で面接を受けて合格しましたが、手当の支給は数年間の勤めた後に満額支給でそれまでは減額支給でした。給料総額を家内と検討しましたが高校の下の娘が在学中はやりくり出来ないので卒業後の再来年まで待つように話しがありました。

良い所があればと思ってたまたま転職情報誌を見ると社員第一の通信会社が社員を募集していたので面接を受けました。

社長と面接が行われ即不合格でした、理由を伺うと「通信工事に対する意欲(質問)より圧倒的に給料や保険加入の待遇の質問が圧倒的に多いので仕事を手段として取り組むように感じられ職務に意欲が感じられない、通信工事の再開が夢と聞いたが入社すれば夢が現実になる。」でした。
私(社長)の思いとして「スキルは充分あり雇用すれば社員は楽になると思うが待遇面で不満が出て去っていく」イメージがあり不安が残るためでした。
生活のために仕事に就く心の内が見透かされ、通信工事に対する以前の気持ちが失われた事に気付かせて頂きました。

まずは今の仕事を誠心誠意勤める事が優先するのではとアドバイスまで頂きました。それをきっかけに過労死するまで働こうと気持ちが切替りました。不思議の心境が変わると家内から大変なら介護の仕事に変わってもよいの話しがありました。

上司の対応は相変わらずでしたが同僚から電気工事を教えて頂けるようになりました、ただ上司には思っている事を言えない環境に疑問を持ちました。ある日に自分の本音を伝えると上司は激怒して、結果は2014年12月(50歳)の退社につながりました。ただ自分の勝手な意見を言うのはどうかと思いますが自分の思いは伝えたほうが良いと思います。

退職後の翌年(翌月)に営業の同僚から準社員(入社後3ケ月以内の試用期間の社員)に退職勧告が行われ退職する連絡がありました、暫くたった時に「太陽光ブームで社員を千人増員の予定が目論みが外れて収益が悪化したために増員分のリストラがあった事」を知りました
結果的に上司の顔色を窺っていても退職する可能性が高かったように思いました。

2014年12月(50歳)を迎えての転職でした、翌年2015年1月からは現在の介護職をしています。

☆10.セラピーとの関わり・地元名古屋編

名古屋に戻ってからのセラピー活動を紹介します。
2013年、2014年は現場出張費の収入があり金銭的に余裕がありセラピー三昧の年を送りました。2014年からは介護職に変わり身の丈に応じた関わり方に変わりました。

思い出に残るイベント
日本セラピスト支援協会-セントレアイベント参加
虹の和リリアン-もちのき広場イベント参加

かにひろこマヤ歴入門 2014年6月 1日
かにひろこマヤ歴初級 2014年6月24日
かにひろこマヤ歴中級 2014年7月26日

カードセッション・スタートアップコース(中 貴子さん)
2014年9月23日

〇受講したセミナー
サイクルマップ(2012年12月6日)
ヒーリングアロマ基礎講座 ・南亜季さん(2013年11月2日)
誕生数秘学入門/チャネリング入門講座・鈴喜みわこさん
あすか瞑想セミナー・司このみさん
スイッチONプリジェクト・中嶋郁子さん
転圧セラピー
メタ・シークレットマスターイントロダクションセミナー(web)
潜在数秘入門動画セミナー

はづき虹映さん、鈴木真奈美さん、穴口恵子さんの名古屋公演会にも行きました。

〇受講したメールセミナー
A-ki☆さん メールセミナー
チャネリングコース 全6回
お金と豊かさコース 1回
セクシャル×スピリチュアル 1回

はづき虹映さん
『2週間でお金の悩みが「0」になる魔法のレッスン』
『2週間で一生が変わる魔法の言葉(じゅもん)』【復活版】

穴口恵子さん
スピリチュアル・ソールコーチング(DVD)

〇受けたセッション
2013年9月15日 ヒプノセラピー・シモン☆ヒプノセラピー
2013年9月22日 鈴木なおみさんセラピー
2013年10月6日 鈴木なおみさんセラピー
2013年11月2日 テルヌーラ遠隔新レイキ
2013年11月30日 ツインセッション ・やす&ともさん
2014年4月15日ハートチャクの癒やし・福本いずみさん(web)
2014年4月28日オラクルライフ スタートパック・くにさき しずかさんさん
2014年7月24日 鈴木なおみさんセラピー
2014年8月22日<シャスタ テロスの神殿>セッション・穴口恵子さん

2014年9月25日 中貴子さん「カードセッション・スタートアップコース 」
2014年9月30日 中貴子さん「ヒーリング・チャネリング・ブロック解除トラブル回避講座講座」

2014年10月28日 富田さんグラスルーエ体験会
2014年11月16日 大塚先生タロット占い(2回目)
2014年11月17日 鈴木なおみさん2015年 1年の流れ
2014年11月18日 アリエルズガーデン平松さんレイキ(2回目)

2015年5月30日 鈴木なおみさんアクセスバース
2015年6月29日 杉浦弘子さんLDM(ライフデザインメソッド)セッション
2015年8月31日 秦由佳さん潜在数秘術 初級動画セミナー
2015年10月1日 くにささしずかさんweb塾

2016年2月11日 浅井ゆりさんらぶじょいカード講座@基礎編
2016年2月16日 中嶋郁子さんアクセスボディプロセス講座(DMMD)
2016年2月26日 魔法使いA-Ki☆さん
魔法使い養成学校入学(合格通知)
2016年3月1日 森野御土日古(もりのおとひこ)さん・星と語り合う講座

セラピー に興味があればホームページ http://spi-mate.jimdo.com/ をご覧頂ければと思います。

☆11.点字・盲ろう者との出会い

1回目にも書きましたが 、自主手話講座のメンバーと一緒に全国盲ろう者協会の全国集会に参加したのがきっかけで全国盲ろう者協会の会員(相談員)登録をしました。

その後に名古屋(愛知)に盲ろう者友の会が設立されたり、通訳・介助員の要請講座が開催されました。私は全国盲ろう者協会の会員だったために講座を受けることなく通訳・介助員に移行しました。

当初は通訳方法に「触手話、指文字・・」が入っていましたが、手話から離れた期間が長くなったので通訳方法から外して「音声、手書き」のみになりました。

ある時に指点字を習得する目的で点訳サークル大樹会に入会しました、入会後に指点字を習得する目的で点訳を学んでも余り効果はないので指点字の学習会に参加した方が良いと聞きました。

大樹会のアットホームなムードに惹かれて指点字のスキル習得の目的に合わないと分かっても通い続けました。今は点訳活動にちょっと疲れたために点訳サークルは休会中です。

盲ろう者向け通 ・介助員は登録中で都合等が合えば派遣依頼に対応しています。

ボランティア活動に興味がある方はホームページ「ボランティア体験記 http://vol-mate.jimdo.com」にお越し頂ければと思います。

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