3年ごとに繰り返す出来事、果たして3度目のリフレインはどうなるのか?!

先日の月曜日の泊り介護は雨天の気圧の関係が偏頭痛が続いていました、深夜になると少し落ち着いてきました。
ベッドで横になって思い出すのは過去からの出来事でした。

高卒で就職して新人研修で千葉県我孫子市の工場に行って東北、横浜を転々としたこと。
横浜の寮で親会社の寮長に好かれて住んでいる5人で毎晩スナック通いだったこと、休日で皆で飲んでいる時に酒の限界を知らずに樹氷を飲み過ぎて倒れて、それをきっかけで酒が苦手になったこと。

我孫子工場でろうあ者と出会い手話に興味を持って社内の手話勉強会、地元手話サークル手賀の会に入会して全国手話通訳問題研究会に入会して北海道集会に参加して淡い夜を過ごしたこと。手話から始まって要約筆記、点訳、盲ろう者通訳ガイドヘルパーになったこと。

我孫子で出会った教団の路上展示がきっかけで、その教団に出家するも半年で辞めて地元に戻り、在家として北区の連絡所で青年部長をした事、教団の分裂があり元の訓練部があった道場の世話のために名東区に引っ越したこと。そこから私は名古屋駅近くのオーナビルの道場に移籍しました。ゴタゴタが落ち着いたら名東区の道場から再び北区の別の場所のビルの1室に拠点を戻しました。

名古屋駅近くの道場はオーナーの考えで別教団に趣旨変えがあり現在の久屋大通り駅近くのビルの一室に引っ越し、北区の拠点は閉鎖して一部の人と合流しました。その道場も長が大きく3度変わりました。

新人研修から地元に戻り北区の手話サークルで活動を行っていましたが、そこから派生した新手話サークルの代表から北区に障害者が働く授産施設が出来るので、そこの職員を募集していることを知って直ぐに転職しました。

1年半位は働いてどうしても合わずに元の職種から独立した会社に戻りましたが、授産施設を辞めてから20年以上経った時に施設長からの電話がきっかけで再びグループ内の訪問介護の部署で現在は働いています。

仕事勤めの時期は大きく分けて

第一部

は18歳から30歳頃まで10年以上務めた通信メーカーの電話機器修理、工事、メンテナンスの仕事です。上司と熊本に同行したことが印象的でした。その仕事は家庭を持つために収入UPする必要があって上司と相談した上で転職の選択をしました。

第二部

は30歳から45歳の約15年間に電機メーカーの工事店として公共工事の現場責任者の業務を行いました。下水道施設の電気設備や道路に設置する情報機器や受配電設備など毎回工事内容や工事場所が変わって全国を転々としていました。

建設業法が厳しくなって電機メーカー社員しか仕事が出来なくなり、存続が危なくなったので社長判断で中堅社員3人を社員として登用することになりました。送別会で社長と3人で下呂温泉に一泊した出来事が記憶深いです。

それから暫くして第一期の仕事がやりたくて面接、内定したので年末に辞表を出しましたが、不景気のために年明けに内定取消しの連絡がありました。

仕方なく自宅近くの娯楽施設の電気工事店に就職しました、2ヶ月目の試用期間で職人とのコミュニケーション不足で不採用になったりしました。

途方に暮れている中にバスの中で転籍する前の上司の顔が浮かんだので状況報告をすると、会社は電機メーカーの子会社として存続していました。

そのに就職した上で親会社に出向して業務を行いました。当時は郵便局民営化の時期で中部県内の店舗に防犯カメラを取り付け工事の応援で大忙しでした。

それが落ち着くと3年工期の高速道路のETC工事の件名が始まりました。早朝から深夜まで激務の中で人生で初めて意図しない転職がありました、それは私の起こした問題行動が元で親会社の上層部が激怒して、結果は職場を追われて新天地に向かいました。

第三部

第1期

はハローワークで見つけた設立数か月の人材派遣会社に入社して形上で情報版メーカーに転籍しました。ここで1年目は岡山で情報版・トンネル防災設備工事。2年目に姫路で路面冠水設備の改修工事。3年目に大阪で高速道路上の気象観測装置更新工事に就きましたが、癖の強いことで有名な施主と厳しいやりとりで心身疲労を起こました。

派遣会社の営業と相談して心身疲労を理由に工事期間でしたが、年末に出向復帰の方向で進み翌年には別の派遣先に変わりました。大阪の上司は工期期間中の辞退に厳しいひとでした。人間関係がとても良くあと一か月持ちこたえれば工事が終わっていたのにと後で悔やまれるました。

年度末には仕事に厳しい大阪の上司が名古屋本社の工事部長になることが判明していて、もしタイミングが前後していれば何事もなく名古屋本社に戻って休息を取って継続したと思われるますが、居残り無理になりました。

大阪から名古屋に戻る途中に名古屋の上司の許可を得て、上司が着工している現場に挨拶に行きました。その時に第二部の同僚や上司と同様に「力になれずに申し訳ない」の言葉が強く残っています。

この大阪出張の時期にセラピーに興味を持って出張費で何点かの民間資格を取得したりイベントに参加しました。

翌年1月から経験のない無線基地局の現場管理で超多忙の会社に派遣されて、何とかなりそうな感じになった2月末には3月末で派遣が終わるのでそれまでに次の派遣を見つけないと解雇の連絡が入りました。

営業さんと色々と探しましたが見つからず3月末が確定しました、1月からの派遣先は既に3ヶ月間の短期派遣者を探していたことを後から知りました。その後の派遣先に不安があるために人選に苦慮して誰でもよくなったらしいです。約3年間の派遣社員生活の期間でした。

第2期

はネットの転職相談で見つけた会社です。その当時にブームになりかけた太陽光発電の商社が工事部門を設立して技術者募集のに応募して採用されました。1年目は伊勢神宮遷座の時に伊勢で野立てという地面に直接太陽パネルを設置する工事に就きました。

ここで人生初めての工事事故が発生して警察や労働基準監督署の対応を行い、工事部署設置の不名誉な初の工事事故1号になりました、これがきっかけに社内の安全管理体制急激に進みました。

工事事故に続きホテルに帰った時に車両の軽い物損事故、さらに現場事故と負のスパイアルが続く状態になりました。何とか乗り切りって現場が終わりました、代休処理で余裕が持て介護のアルバイトや資格取得が出来ました。

2年目は伊賀で工場の屋根に太陽パネルの設置する工事を担当しました、8割方工事が完了した頃に社内処理のトラブルが続発して上司から悪評価となって関係がこじれましたそのまま修復出来ずに、工事が終わる時には退職を決意していました。

名古屋営業所の技術者は工事管理部門に私と同僚の二人に中途採用の新入社員の三人とメンテナンス部門に一人の計四人がいました。私が退職のことを伝えると同僚とメンテナンス部門の二人は既に退職の手続きをして二ヶ月に分けて去っていくと聞きました。

四人中の三人が去る理由について現場上がりの人間に営業と同様のルールは適しておらず嫌気がさしたのが理由です。次の職場を決めたあとに上司に退職を報告するとスンナリと了解されて再来月に決まりました。

入社時はやり手の若手の所長でしたが大阪本社に栄転されて売り上げより人間関係を大切にする温厚な所長に変わりました。大量の技術者の退職理由に疑問を持たれました。

我々技術者は本社の指示で現状は変えようが無いので仕方なしの苦肉な結果の転職でした。私の退職が公になり送別会の帰りがけに所長から「話しがあれば名古屋営業は売り上げ上位なので名古屋のローカルルールで動き易く出来たのに」と残念そうに言われのが心に残っています。

前所長は売り上げ第一でそんな事は目もくれませんでしたが後任所長は営業も技術も組織体系は異なっていても同じ営業者もメンバーの認識で、ここでもタイミングと言うより一声掛けていたら流れが変わったかも知れません。同僚にも惜しまれながら共感さなら人生初の人間関係での転職でした。

第3期

は次の転職先の太陽光発電の工事会社でした。11月に入社して2週間の間は軍隊式のスパルタの新人教育を受けて配属された、勤務地で上司に目の敵にされて土日が無いブラック(工事業界では普通らしいですが・・・)会社で職人にフォローされましたが、激務に中で感情的になって上司との関係で一気に退職まで進みました。この時も前回同様に上司の引き留めはありませんでした。

これで15年務めた建設業界の仕事から去りました。

第4期/ 第四部

の介護職が2015年1月から始まりました。3年目の2017年10月は精神的にもう駄目かを思っていましたが、元管理者のフォロー得て何とか乗り越えました。
そして約半年後の5月の今辛い状況になりましたが、またしてもその方からフォローを頂いている状態です。

どうなるか分かりませんが毎日の介護を一期一会に気持ちに近い状態で行っています、出来れば5年目10年目を迎えればと思っています。

人生時には人知を超えた采配もありどうしようもない事もありますが今までの教訓が生かせればと思っています。

話題は変わって

これはGYAOの無料動画で観た「ザ・ワーズ 盗まれた人生」で2018年5月31日まで配信を行っています。人生で何を大切にするかを問われる映画で見応えがありました。